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運用指図について

運用指図とは、確定拠出年金の運用において、掛金の金額、運営管理機関が提示した運用商品の中から選択した運用商品、 または運用商品の預け替えを、運営管理機関に指示することです。 視力回復に西遼(カラ・キタイ)が、実際にサマルカンド近辺でセルジューク朝軍を破ったことが誤って伝えられたものと思われる。当然、西遼の支配者層は仏教徒であり、キリスト教徒ではない。しかしネストリウス派はヨーロッパから追放され、中央アジアから中国にまで散らばる大コミュニティーを形成していたため、西遼の軍の中にキリスト教徒がいた可能性は否定できない。 ところが1165年ごろ、プレスター・ジョンの手紙と称するものが西欧に広く出回ることになる。その手紙は、「東方の三博士の子孫でインドの王プレスター・ジョン」から「ビザンティン皇帝マヌエル1世コムネノス」に宛てたとされるもので、この手紙は各国語に翻訳され、さらに尾ひれがついて多くの複製が作られた。今日でも数百通が残されている。これに対し、1177年にローマ教皇アレクサンデル3世は、プレスター・ジョン宛ての手紙を持たせた使者を派遣した。その後、使者がどうなったかは定かではない。しかしこの手紙は、西欧では数十年にわたって人気を博したと言う。このプレスター・ジョンの手紙は現代の研究では、当時の西欧人が偽造したものだと考えられている(一部、千一夜物語からの仮借もあると言う)。またマルコ・ポーロも、プレスター・ジョンの国家がアジアにあると確信していた。 美容整形、第5回十字軍に従軍したアッコンの司教が、「プレスター・ジョンの孫のダビデ王がペルシアを征服してバグダードに向かっている」との報告をもたらした。これは実はモンゴル帝国のチンギス・ハーンのことであり、1245年にプラノ・カルピニのジョヴァンニがローマ教皇庁によってグユクの即位式に、1253年にはウィリアム・ルブルックがフランス国王ルイ9世によってモンケの治世に、フランシスコ派の修道士らを代表とする使節がそれぞれモンゴル宮廷に派遣された。当時、彼らによって西側に伝えられた話では、チンギス・ハーンの義父、ケレイトのオン・ハンがプレスター・ジョンだったが、チンギス・ハーンと争い殺されたいうものである。モンゴルに滅ぼされたケレイト、ナイマンなどの遊牧国家のいくつかは、実際にネストリウス派キリスト教国であり、モンゴル帝室にもネストリウス派キリスト教徒は多かったので、このような話になったと思われる。この後、プレスター・ジョンは完全に伝説となり、聖杯伝説などと結び付けられたりするようになる。 レーシックからエチオピアにキリスト教国(コプト派)があることは知られていたが、イスラム教国で遮られていたため、ほとんど接触がなかった。1306年にエチオピアから30人の使節が来欧し、15世紀ごろからエチオピアの皇帝をプレスター・ジョンと呼ぶようになった。1520年にポルトガルが外交関係を樹立した際も、プレスター・ジョンを皇帝と同義語に使っている。また、モンゴルに追われてアジア側からアフリカへ避難しただけと言う者もいた。 これに対してコプト教会側は激しく否定した。エチオピアは、4世紀にキリスト教に改宗しており、プレスター・ジョンという胡散臭い組織と同一視される事を拒んだ。しかも自分たちは、ソロモン王とシバの女王の子メネリクを祖とする皇統を誇っていると豪語した(歴史的な根拠には乏しい)。 しかしヨーロッパの世界地図には長らくエチオピアがプレスター・ジョンの国として描れた。またポルトガルの航海士ヴァスコ・ダ・ガマもアフリカ東海岸に寄航した折に誤認した。 エステサロンは、エチオピアがプレスター・ジョンの国であるという根拠も証拠も乏しく、断定することはできなかった。 結局のところエチオピアに否定され、他に存在するという証すら発見できず、何の進展も無く17世紀までにヨーロッパ人の話題にすらならず自然消滅してしまう事になった。現代でも、大航海時代が湧き上がった原因の1つにプレスター・ジョンの伝説があるが、世界中探し回って見つけられなかった為に歴史家や専門家の研究対象となりにくく、世界史の一面としては、影の歴史として据えられてしまったのである。 『アルカディアの牧人たち』はバロック時代のフランスの画家ニコラ・プッサンの代表作。墓石にラテン語で"Et In Arcadia Ego"(我はアルカディアにもある)と書かれているのを牧人たちが覗き込んで想いにふける様を描いている。尚、"Et In Arcadia Ego"(我はアルカディアにもある)は、並び替えると"I Tego Arcana Dai"(立ち去れ! 私は神の秘密を隠した!)となることから、聖杯への鍵とされている。聖杯伝説を参照。 イングランド、スタンフォードシャーのリッチフィールド家の庭園にあった記念石碑は、ニコラ・プッサンの『アルカディアの牧人たち』をもとにした鏡像である。この石碑には"D.O.V.O.S.V.A.V.V.M"と刻まれている。これは聖杯への鍵とされている。この暗号はイギリスのプレッチリーパークの暗号研究所の元解読班員であり、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に開発した暗号機『エニグマ』を破ったオリヴァー・ローンが解読を試みている。 ノーヴェル・W・ペイジ Norvell W. Page 『炎の塔の剣士』Flame Winds (1939) 『熊神の王国の剣士』Sons of the Bear-God (1939) - ロバート・E・ハワードの英雄コナンシリーズの系譜を継ぐヒロイック・ファンタジーであり、プレスター・ジョンはコナン風の肉体派剣士として主役を務めた。性格もコナン風の味つけで、色も欲もある大らかな普通の人間として描かれている。シリーズ2作目『熊神の王国の剣士』はアンノウン誌に連載されたもので長らく単行本化されておらず、書籍として刊行されたのは日本が最初である。本国で出版されたかどうかは不明。 最後の騎士道物語、『聖杯の騎士ペルスヴァル』は、彼が晩年に仕えていたフランドル伯フィリップのために作られた。彼は9,000行を書き上げたところで終わり、様々な才能の4人の後継者達が続きとなる計54,000行(「4つの続編」として知られる)を書き加えた。同様に、『ランスロ』の最後の1,000行はクレティアンの書記であったゴドフロワ・ド・レイニ(Godefroi de Leigni)が書き、クレティアンが編集している。『ペルスヴァル』の場合はある続編執筆者が「詩人は死のために物語を完成させることができなかった」と書いているが、『ランスロ』の場合はクレティアンが最後を書かなかった理由は不明である。結婚生活の愛を描くことにかけては中世文学最高の作家であったクレティアンには、『ランスロ』におけるグィネヴィアとランスロの姦通についての題材をどうしても書くことができなかったという憶測もある。 その他、2編の小さな詩が彼の作に帰せられている。信心深い内容の物語、『ギヨーム・ダングレテール(Guillaume d'Angleterre、イングランドのウィリアム)』は彼の作品とされていたが疑問も多い。もう一つはオウィディウスの『変身物語』に基づく彼の四つの有名な詩のうち唯一現存する『ピロメナ(Philomena)』である。『クリジェ』の序文ではクレティアンはオウィディウスの翻訳について特筆し、さらにコーンウォールのマルク王やイゾルデについての彼の詩についても述べている。イゾルデとはおそらくトリスタンとイゾルデの伝説のことであろうが、トリスタンについて触れていないことは興味深い。